街を抜けると1本の道の左右に広大な土地が広がっているだけで
時々民家と店が見えてまた何もない土地が広がる。。。
と、急にバスが止まったところには「日本病院」という看板がありました。
でもその看板だけです。
2005年にプロジェクトが始まったそうですが、インド政府はOKしたが、
マニプール州がOKできずに結局はその敷地に日本病院が建つことはなく
今でも看板だけが残っているそうです。
日本はどこかの支援団体が進めていたと思われるとのことでした。




しばらく行くと、その1本道から横道に入りバスは止まりました。

民家が点々としているだけの場所の先にある小高い丘の上に赤い旗が立っていました。

それは IRABOT-shin という人を讃える共産党の赤旗でした。
この人は マニプール王国の独立を目指していた共産党の指導者のような人で
戦争当時はアッサムの刑務所にいたのですが、日本軍は彼を利用して
共にイギリス軍と戦おうとしていたとのことです。
戦後は、マニプール王国の王は独立しないことを決めましたが、
今でもナガ族は独立を望んでいる人は多く、ゲリラと言われ警戒されています。
インパール市内でもライフルを持った軍隊が多くいました。

その後バスは山に突き当たりどんどんと登っていきます。


途中にポツンとお店があり女性たちが食べ物を売っている場所がありました。
黒米で作った蒸しパンのような食感だけど揚げてあるお菓子。



バナナの葉の中はまさにちまきでした。

さらに進むと日本と同じような風景、段々畑が続きます。
そして山頂には、村があり家があり人々が生活していました。
が、戦争当時はこのような村に日本の軍隊が来ていました。


ここに住む男性(82歳)が戦争当時、日本兵と話をしたことがあり
戦後に村の人々が戦時中のことを表した歌が残っていてその男性が歌を歌ってくれました。
まずは家の中に入れていただきました。









この村には 山本支隊(歩兵隊)が駐留していて、
チャンドラボース率いる6,000人のインド独立軍とイギリス軍の戦いのことが
歌に歌われていました。



子ども達が珍しそうに来てくれました。
周りの風景は穏やかで素朴です。
教会が多くありました。



















山本支隊の西田さんという方が戦後、ここに来て作られた建物。



この男性(87歳)は藤原機関と親しかったという方でした。
家の敷地に当時の資料を残していて、日本にも何度か来たそうです。



インパール作戦は 無謀な作戦であったという情報はありましたが、
インパール作戦中に 地元部族間で独立派とイギリス軍の抗争などもあり
また、親日派と親英派にも分かれて地元部族が支援していたりと、、、
インパール作戦の今まで知らなかったこと、特に知りたかったインド側の様子、
その扉が開いたみたいに この日の情報には驚きました。
しかし、そのような戦争自体があったとは到底想像がつかなような
素朴で穏やかな地のギャップにも戸惑うばかりでした。